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  • 中村 敦夫: ごみを喰う男

    中村 敦夫: ごみを喰う男
    俳優で政治家経験もある著者が、ゴミ、産廃問題を下敷きに描く社会派推理。現場調査を重ねた意欲作。 ゴミを通して現代が見える。

  • 中村 敦夫: 「さらば、欲望の国」

    中村 敦夫: 「さらば、欲望の国」
    欲望の大国から、環境立国へ! 現在の日本・世界が抱える様々なテーマを入口に、その構造を突き詰める。地球の限界についての認識と、社会やライフ・スタイルの転換を熱く提唱する。

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2004-10-21

10/16 朝日新聞【be】「逆風満帆」(下)

■初出馬で負けに驚き
 72年のドラマ「木枯し紋次郎」で俳優として世に知られ、84年から92年まで情報番組の硬派キャスターとして鳴らした中村敦夫(64)は95年7月、新党さきがけ公認候補として、参議院東京選挙区から出馬した。
 センセイになりたかったわけではない。キャスターとして世界各地を取材し、ものを調べ、考えるなかで、筋の通らない政治家たちや明治以来の「官」主導の国家のあり方に憤りを感じていた。自民党を飛び出した武村正義らが結成した新党さきがけは行革、環境、平和を唱えており、その考え方に共鳴した。彼らは本物だと思った。「この人たちとならやっていける」
 一方のさきがけは連立政権で与党の中にあったものの、往時の勢いに衰えが見え始めていた。中村の知名度に賭けたいという思惑もあった。
 選対本部長は菅直人だった。選挙事務の多くを党に任せて街頭に立った中村は「これだけまともなことを言っているんだから当然入るだろう」と思っていた。しかし落選。田英夫、見城美枝子らと票を奪い合い、中村は40万票を得たが、田と3万票差で次点だった。
 「はあー、負けることもあるんだ」。中村は「新鮮な驚き」を感じた。小中学校では圧勝して生徒会長になってきたし、その後の人生でも負けを実感するような場面はなかった。俳優やキャスターは個人の適性や才能があればなんとかなるものだった。
 それからの1年ほどがつらかった。別の選挙に出るだろうと色めがねで見られ、仕事は来なかった。主演したNHKドラマ「官僚たちの夏」の放送も延期された。なにより自分自身、「オレは一体何なんだろう」という中途半端な気持ちを抱え、どう決着をつけていいかわからなかった。
 さきがけも崩壊していった。小選挙区制が導入された96年の総選挙で惨敗。中村の盟友とも言われた田中秀征も落選した。民主党に行く者もあり、党は分裂した。
 98年の参院東京選挙区への再出馬を決めたのは、自分はさきがけに担がれた人寄せパンダではない、今も本気なのだ、ということを証明したかったからだ。それで落ちればケリがつく。
 公示日の3週間前に会見を開いて立候補を表明。さきがけからは推薦を受けるにとどめた。ほとんど1人で始めた選挙戦は、終盤になると自然発生的なボランティア選挙になっていた。無党派ブームにも乗り、結局自民党候補を破り、71万票余で当選した。
 中村は「新党をつくる」という公約を掲げた。中村を応援した田中秀征は「一般の人には役者の大ボラとしか受け取られない」と反対したが、当選後中村は1人で新党「国民会議」を立ち上げた。00年には武村正義の落選で抜け殻のようになったさきがけの代表に就任し、組織を一体化。02年、党名を「みどりの会議」に変えた。

■砂漠に水まく選挙戦
 欧米の緑の党のように、環境問題を政治の理念に定着させよう。中村は意気込んだ。
 03年の統一地方選では、中村の応援を得たいと、200人もの候補者がやってきたのに、国政で環境問題に取り組もうという者はなかなか現れない。候補者が10人いないと参院比例区には出られないが、10人目が決まったのは、選挙の1カ月ほど前だ。
 孤独だった。だれもが環境問題に関心を寄せているのに、それが政治に結びつかない。各地に専門的な知識を持つ環境運動家はいる。だが政治家はパイプとしてだけ使おう、という傾向がみられた。
 比例区のハードルも高かった。供託金は6000万円。半年で1億円以上使った。もっと金があれば広告を打つなどのキャンペーンもできたが、頼みのメディアも「その他の政党」扱い。選挙戦は、砂漠に水をまくようなものだった。
 「カネと組織力で9割方決まる。もう小さな政党は登場できない。本来の参院が持つチェック機能もなくなるだろう」と中村は肩を落とす。
 しかし、みどりの会議が得た90万票という「地下水脈」があることはわかった。それだけでも成果はあった。
 これから、勉強をしようと思っている。欧米では、みどりの政治が理論化されている。「日本発の思想をつくらねば」という思いをずっと抱いてきた。SLOW、SMALL、SIMPLE。党のスローガンだった3Sは、日本の民俗文化の中にもともと備わっているものではないか。それを思想化し、映像か、活字か、今はわからないが、何かの形で、いずれ表現したいと思っている。

   (10/16 朝日新聞【be】「逆風満帆」下)

10/9 朝日新聞【be】「逆風満帆」(中)

■俳優座を集団で退団
 この10年ほど政治家として理不尽な制度や政策と戦ってきた中村敦夫(64)の名が世間に知られるようになったのは、72年に大ヒットしたフジテレビ系ドラマ「木枯し紋次郎」だった。
 だが、それ以前は鳴かず飛ばずで、舞台俳優としてはついに芽が出なかった。
 もとは、俳優座にいた。先輩には仲代達矢や平幹二朗らがおり、養成所時代から一緒だった山本圭は、中村より一足先にスターになっていた。かたや中村は通行人Aといった端役ばかり。
 生活は困窮を極めた。ある冬の日、帰宅すると、6畳一間の部屋に泥棒のものらしき土足の足跡があった。「でもね、どうやら押し入れの前でUターンして帰っちゃったんだよ」。押し入れにあったのは布団と何冊かの本だけ。盗むものは何もなかった。
 俳優としては不遇だったが、20代で最年少の劇団幹事に選ばれ、海外の台本の翻訳や、脚本を手がけるようになった。劇団の演目をめぐり、新しい演劇をやりたい若手を代弁する形で、既定路線からはみ出せない幹部らと対立した。前衛的な芝居を独自公演したこともある。
 留学などで2度渡米し、帰国したあとも、ベテランと若手の溝は深まる一方だった。ついに71年、中村は市原悦子や原田芳雄ら若手の看板俳優らと共に、集団で退団する。
 「固定した分野でぬるま湯にいるのはいやでね。人生おもしろい方がいい。それに私はね、苦しいのが普通だった。生まれつき逆境の中にいたようなもんで」
 小説家を志しつつ新聞記者になった父と、東京の名家に生まれた母は駆け落ち同然で結婚した。だが福島の地元紙の支局長になった父は借金を重ね、女性問題も多く、夫婦げんかが絶えなかった。小学校に入っても運動靴が買えず、母が持ち物を質屋に入れて生活費を工面していた。
 「コメやみそをつけで買うでしょ。月末に集金人がやってきてトントンと戸をたたく音を聞くのは恐怖だった」
 母は優等生の中村に期待をかけ、高校を受験させた。父と別れた母と弟と東京に移り住み、進学校に入ったが、中村自身は点取り競争にむなしさを感じ、母の望むまっとうな道に魅力を感じなかった。
 なにしろ、高校時代に読んで感動したのがサマセット・モームの「月と六ペンス」。平凡な中年の勤め人が家族も地位も捨ててタヒチに渡り、絵描きとして自由に生きるという内容に心ひかれた。
 そこで、インドネシア語を学ぼうと東京外語大に進学した。ところがここは、南の島どころか商社をめざす学生が入るところだった。たまたま出会った演劇にはまり大学を中退。俳優の世界を選ぶ。

■テレビ局にも筋通す
 「紋次郎」の成功以降も、筋を通す姿勢は一貫していた。73年のフジテレビ系ドラマ「追跡」で、局は5人に脚本を依頼し、その中にアングラ演劇の人気者、唐十郎がいた。案の定、難解なものができ、試写した局の幹部は勝手に放送中止を決めた。主演していた中村はこれに怒った。「唐が何者かをわかって頼んでおきながら、作品ができてからやめるとは何ごとか」。だが中止の決定は覆らず、中村は番組を降りた。放送も打ち切られた。
 その後コメディーもメロドラマも演じたが、10年もたつと、俳優業に飽き飽きしてきた。東南アジアに取材に行き、83年に国際小説「チェンマイの首」を出版。翌年にはTBS系の情報番組「地球発22時(のち23時)」のキャスターに抜擢(ばってき)された。
 この番組でも、局と衝突した。85年、米国亡命中の金大中が韓国に帰国する前、中村はワシントンで単独インタビューに成功したが、政治的圧力で局側が放送できないと言ってきた。中村は怒る。「スクープを前提にインタビューしたのに、何を今さら。放送しないなら責任をとってキャスターを辞める」。結局、インタビューは放送された。
 88年4月、放送時間枠の変更に対し、中村が批判的な発言をしたとして、局側は中村を降ろしてしまった。
 だが1年半後、中村は別の局の情報番組のキャスターに復帰する。「どっちが筋が通っているか、周囲は結構わかってくれる。だから干されない」。普通の人には逆風と思える状況でも、くじけず順風に変えてしまう魔術を、中村は持っているかのようだ。
 キャスター業をするうちに、日本という国が見えてきた。「政治や行政がデタラメだ」。そんなとき新党さきがけから、参院選に出ないかという話が来た。

   (10/9 朝日新聞【be】「逆風満帆」中)

10/2 朝日新聞【be】「逆風満帆」(上)

■党で90万票得て落選
 道路問題、ダム、ODA、行政監視委員会……。そんな名のファイルをより分けながら、元参議院議員で俳優の中村敦夫(64)は「本当に政治をやる国会議員もいるんですよ」と静かに笑う。
 政治家として奮闘した日々は、7月12日未明に幕を閉じた。自らが立ち上げた新政党「みどりの会議」から比例区で立候補、党は90万票を獲得したが、1議席もとれなかった。中村個人名で20万票を得ていたものの、落選した。
 選挙後の7月22日、中村は政界引退を表明し、党も10月末で解散することを決めた。
 「もう64ですよ。俳優だから若いフリしてきたけど、ずーっと疲れてた」
 東京・四谷の党事務所は9月に引き払った。書類の整理をしながらも、中村の表情や口調はさっぱりしていた。
 「次は何するかって? 皆さんすぐそう聞いてくる。でも、何もしないのが一番なんだよ。1年ぐらい休みたい」
 6年前、参院東京選挙区で70万票を得て初当選したとき、こんな句を詠んだ。
 「嵐とて どこ吹く風よ オレの道」
 ドラマで演じた木枯し紋次郎のように、政治家としての中村もまた、一匹オオカミだった。その姿勢は、「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言いつつ、結局は民衆の側に立ち、敵に切り込んでいく紋次郎と重なる。
 中村の手元に、厚さ10センチもの分厚いファイルが4冊もある。環境団体などからの依頼書だ。年間150もの依頼がきた。00年からは、超党派の「公共事業チェック議員の会」会長として活動した。環境破壊や将来的な財政負担を問題視し、全国のダムや林道、ごみ処分場などに足を運んだ。その数は27都道府県、70カ所以上に及ぶ。
 熊本・川辺川ダムは99年に訪れて地元村長らと意見交換して以来、建設省(当時)などに生物の保全策や洪水調節機能などについて何度も質問書を出した。
 静岡空港も視察し、「需要や採算、安全面で現実性のない計画だ」と批判する中村と、推進派の知事らが対立。昨年は159人の国会議員の反対署名を県に提出した。
 中村の動きは、公共事業に対する世間の関心を高める効果があった。だが、静岡空港は今年3月、国交省から改めてゴーサインが出た。膨大な予算に、役人の天下り先となる特殊法人や政治家、業者が群がる公共事業という利権の壁は厚い。
 「議員のだれもがやりたがらない仕事だった。先頭に立った敦夫さんが一番輝いていた」。参院で中村と会派を組んだ福祉活動家の黒岩秩子(ちづこ)は、こう振り返る。

■官に刀で生身の戦い
 中村の戦いの相手は、主に「官」だった。議会は完全に儀式化し、官僚のつくった段取り通りに進んでいた。
 議員のほとんどが団体や組織をバックにしているため、役人と対決できずにいる。「こっちは何にもないから、血刀下げて、生身の戦いをするわけ」
 商社とも食品業界とも関係のない中村は、牛海綿状脳症(BSE)問題で肉骨粉の輸入ルートの解明を農水省に求め続けた。偽装事件の温床ともいえる不透明な牛肉買い取り制度もただした。だが、官側は「企業秘密」を盾にまともに答えようとしない。
 民の側に立つほど、損な話ばかり。それでも、理不尽なことに我慢できない中村は、愚直に抵抗を続けた。
 239対1。参院本会議での議決で、この「1」が中村だったことが何度もある。たとえば外国人登録証の携帯義務の廃止見送り。「『後で見直す』という付帯決議があっても廃止されない」と、1人反対した。「政治は数じゃなく質だ」と中村。「1」があることで、問題が顕在化する、という。
 「挫折感なんて感じてたら続かないよ。地獄と結婚したような状態。えんま様に謝って仲間に入れてもらうか、戦い続けるか」
 俳優は脚本通りに演じるが、政治家は理念と政策を体現する。俳優は演じ終われば次の役をやっていいが、政治家には一貫性と公的責任が必要だ——。真剣勝負をしてきた中村の精神も肉体も、限界に達していた。

  (10/2 朝日新聞【be】「逆風満帆」上)